橋本さんの休日
―橋本・妻・息子―
「パパぁ!おはよーございまーす!おきて、おきて、おっきしなさーい!!」
「・・・ぅ・んっ・・・陽仁(はるひと)・・・」
「パパはおしごとない日は、おねぼうさんですねぇ」
「・・・・・・そら!ハルも一緒に寝坊しよう!」
「やあぁ、パァパ!くすぐったぁい!キャハハハ・・・やだ、やだぁ!
ママにしかられるもん!おねぼうは、いけないんだもん!」
だんだん子供の指摘が的を射てくる。
こうしてごまかしが効くのもあとわずかだろう。
子供のいるサラリーマン家庭はどこも似たようなものか・・・橋本はだるい体を何とか起こして洗面に立った。
ある晴れた日曜日。橋本家の朝。
パパ、A&Kカンパニー秘書課勤務。
ママ、来年第二子出産予定。
息子、6歳。来年小学校入学予定。
「ママぁ、パパおきたよぉ!ごはん食べる〜」
「ありがとう、ハルくん。それじゃ手を洗って'いただきます'したら、どうぞ」
「はぁ〜い!」
パタパタと洗面所に走って行く息子と入れ違いに、橋本がダイニングルームに入って来た。
「・・・あらっ?おはようございます。陽仁、手を洗いに行きませんでした?
見ていてくださっていると思ったのに」
「・・・・・・冗談。ハルは来年小学生だぞ。ひとりで手ぐらい洗えなくてどうする」
起きて来た途端妻から愚痴を零された橋本は、そのままテーブルに着くと前に揃えて置かれている新聞を順に読み始めた。
頁を捲るたびバサリバサリと必要以上に音が立つ。
不機嫌さがその所作(しょさ=しぐさ)に現れていた。
「手、あらってきたよ!いただきま〜す!」
食卓には焼き物、煮物、汁物、香の物と、ほかほかご飯が三人分並んでいる。
橋本家の朝は和食が基本のようだった。
「ちゃんと手を洗えたか?」
妻に言われるのは癪に障るがやはりそこは親だ。橋本は息子に声を掛けた。
「うん」
「・・・・・・」
「はいっ!」
「よし。と言いたいところだが・・・ハルのここ、どうして濡れてるんだ?」
触ってみると、着ているトレーナーのわき腹辺りが湿っている。そればかりか皺も寄っている。
たぶん反対側のわき腹も同じようになっているはずだ。
「・・・ちゃんと・・・洗ったもん・・・」
所詮六歳、父親のひと睨みできちんとした手洗いが出来ていないのがバレてしまった。
陽仁はそれでもささやかな抵抗を見せる。
橋本はそんな抵抗などさらさら気にも留めず、目を逸らしてご飯を食べようとする息子の手をぐっと掴んだ。
「本当か?」
陽仁の体がビクリと大きく跳ねて、箸がバラッと落ちた。
「・・・ふえぇ・・ん・・・・・ママぁ・・・」
「ハルくん、せっかく手を洗っても、お洋服で拭いたらまた汚れてしまうでしょう。
パパは最後まで手を綺麗に出来ましたかと聞いているのよ」
母親にはわかっている。普段はちゃんと出来ている息子が、少し急いでズルをしただけのことだ。
要点だけを言って聞かせると、案の定陽仁はあっさりと認めた。
「・・・パパ・・ごめんなさいぃ・・・」
「どうするんだ?」
「もういっかい・・手・・あらってくる」
ここで橋本は息子の手を放した。
「少しあなたが見ていてくださっていれば良かったのに」
まださっきのことを言うのか、しつこいな・・・子供をそんな過保護にしてどうする。
橋本は思うものの、朝っぱらから妻と子育ての議論をするなどとてもじゃないがご免被りたい。
それでなくても昨日は園田の結婚前祝で午前様だったのだ。体も胃袋もだるい。
「・・・コーヒー」
用意された朝食には目もくれず新聞から顔を上げないままの夫に、妻は「はい」とだけ返事をして事前に立てておいたサイフォンからコーヒーを注(つ)いだ。
後一歩のところを互いに踏み止まる。
手を洗い直して来た陽仁が、おいしそうにご飯を食べている。
新聞を読みながら時々ちらりと見ては息子の頬についたご飯粒を取ってやる夫と、「よく噛んで」「お茶碗をしっかり持ちなさい」注意をしながらも一生懸命食べる姿に目を細める妻。
和やかなひと時が橋本家を包む。
それが家族の幸せを成して行くのなら、夫も妻も息子の前では父親と母親の顔を崩すことはなかった。
朝食が済むと、橋本はリビングに移動した。
済んだと言ってもコーヒーを飲んだだけで、やはり朝食には手をつけられなかった。
いまひとつ体は本調子に戻っていない。
本当はゴロリとソファに寝転びたいところだが、今日はこれから家族で出掛ける予定を立てていた。
出掛ける先は、半年ほど前に市街地の中心に出来たショッピングセンターだった。
たいした遠出でもないが、妻の妊娠がわかってから安定期に入るまでしばらく家族で外出することがなかったこともあり、陽仁はずいぶん前からこの日を楽しみにしていた。
「パパぁ!ママもうすぐおかたづけおわるって!車にのって、まってようよぉー!」
大好きなパパの車(シーマ)に乗れるのも、陽仁の楽しみのひとつだった。
ただし橋本家では、子供は後部座席と決められている。
安全が第一の目的ではあるが、それとはまた別で大人と子供の領域を区別させることにあった。
毎回玩具をひとつだけ持たせてやって、シートベルをきっちり掛けて後部座席に座らせる。
来年はやっと取れたチャイルドシードをまたつけるが、さほど窮屈さを感じさせないほどシーマの中は広くゆったりとしている。揺れも少ない。
シーマは橋本が家族の為に選んだ車だった。
「そうだな、じゃあ車に持って行く玩具、選んでおいで。ただしひとつだけだぞ」
「はぁいっ!!」
嬉しげに自分の部屋へ玩具を取りに行く息子の後姿に、自然に笑みが浮かぶ。
この一瞬だけは体のだるさも忘れるから不思議だ。
そしてこんな時に、ふと甦る。
あの日、何もかも捨てて選択した自分の人生の分岐路が。
一歩を踏み出した時点で、分岐路は軌跡だけを残して闇に消える。
人生は路なき路を行くのと同じだ。
だからこそ自分の信じるもの、愛するものが光となり道標となる。
「・・・ん?・・・どうした、大丈夫か」
橋本は車のキーを取りに行こうとソファから立ち上がったところで、ダイニングテーブルに座っている妻に気が付いた。
口元を押さえていて顔色も青い。あきらかに具合が悪そうだった。
「少し・・・ここ最近はつわりも軽くて大丈夫と思ったのですが・・・」
つわりは体質的なものもあるようで、橋本の妻は酷い方だった。
陽仁の時など、産み月まで吐いていたのを覚えている。
「無理するな。ハルと二人で行って来るよ。その方がゆっくり休めるだろう」
「陽仁が楽しみにしているので、そうして頂けると助かりますけど・・・。
あなたも疲れていらっしゃるのに、すみません」
「俺は大丈夫さ。それに昨日遅くなったのは仕事じゃないしな」
橋本が妻を気遣っていると、本を手にした陽仁がダイニングルームの入り口に立っていた。
「・・・ママ、行かないの?」
「うん、ママはお腹の赤ちゃんと留守番だ」
「・・・だって、前もママおるすばんだった」
陽仁には赤ちゃんのことも、来年お兄ちゃんになることも言ってある。
「仕方ないだろう、ママ無理するとお腹の赤ちゃんが落っこちてしまうんだよ」
実際陽仁と来年出産予定の赤ちゃんとの間は六年空いている。
途中流産を繰り返しての第二子だった。
橋本も妻も慎重にならざるを得ない。
「ママ、赤ちゃんだいじ?」
「大事よ、とても大切」
「・・・ぼくよりも」
「ハルくんと同じくらいに」
陽仁の顔がフニャッと歪んだ。何ともいえない表情で陽仁は唇を噛んだ。
「ハル、どうした?同じじゃだめなのか」
陽仁の目は問われた父親の方に向けられた。
同じではだめなのだ。
そんな息子の気持ちは痛いほどわかる二人だが、その場凌ぎの言葉を掛けるようなことはしたくなかった。
その点だけは子育てにおける二人共通の価値観だった。
「だってね、だってね、パパ!赤ちゃんよりぼくの方がママとたくさんいるんだよ!」
「それじゃパパはハルよりたくさんママといるぞ。ママはハルよりパパの方がずっとたくさん好きなんだな」
陽仁の目が大きく見開かれて、やがてじわりと涙腺に涙がいっぱい溜まった。
まさか父親が自分のライバルになるなんて、子供の思考では考えつかないことだった。
「ママぁ!パパがイジワル言う!・・・うえぇ〜んっ・・ママァ・・・」
「ハルくん。同じだけっていうのは、大好きが減るんじゃなくて、増えるのよ。
わかる?大好きが増えるの。ハルくん、パパとママのこと同じだけ好きでしょう」
わかり易く言い聞かそうとしても、陽仁はすっかり甘えモードに入ってしまっていて、ママ、ママと母親の膝に顔を埋めて纏わりつくばかりだった。
「ハルが赤ちゃんみたいだな。ママがよけい疲れるだろ。おいで、行くぞ」
「・・・行かないもん」
「ハル、パパは嫌いか?」
「・・・・・・イジワルばっかり言うパパはきらいだもん」
赤ちゃんみたいと言われたのも気に入らなかったようだ。
少しは恥ずかしいという気持ちもあるようだった。
「本当のことだろう。いつまでもそうやって拗ねていたら、ママのお腹の中の赤ちゃんに笑われるぞ」
甘やかして育てたつもりはないが、一人っ子ということでどうしても過保護になってしまうのは仕方のないことなのか。
六歳にもなってまだ母親の膝でぐずる陽仁に、橋本は苛立ちを感じた。
「ほんとうのことじゃないもん!!パパなんてきらい!大っきらい!あっち行け!!」
子供は思わぬところで敏感だ。父親の苛立ちがさらに息子を頑なにする。
とうとう癇癪を起こしてしまった陽仁は、足元に転がる本を喚きながら父親の橋本に向けて蹴飛ばした。
その本は近頃ずいぶん字を覚えて読めるようになった陽仁が、ひとつだけの玩具に選んだものだった。
車の中で読んでいるところをパパに聞いてもらうために。
「陽仁!!誰にものを言っているんだ!」
感情的になるまいと思っても、つい声を荒げてしまった。
暴言ばかりか自分に向けて物を蹴って来たことが、よけい橋本の神経を逆撫でた。
陽仁は父親の怒鳴り声に、一発で身を竦めてしまった。
橋本は母親の膝にしがみつく陽仁の両脇に手を回して、強引に引き剥がした。
「ほら、お尻出せ!」
「やだ!やだ!ぶっちゃやだぁ!やああぁぁんっ!!」
座り込んで暴れる陽仁を半抱きにして膝立たせると、半ズボンのホックを外して下着ごと下げた。
まだ幼児体形に近いお尻がスルリと剥き出しになった瞬間、橋本は息子の体の強張りをその腕に感じて、ようやく冷静さを取り戻すことが出来た。
しっかり息子の背中を片腕で支え、胸に抱きなおしてお尻を叩いた。
ぱしんっ! ばちんっ! ばちんっ!
「いたぁいっ!パパ、いたいぃっ!うえええぇん・・・」
かなり加減しているものの、陽仁には叩かれていることがすでに痛いことだった。
「ハル、パパに何て言ったんだ?本も蹴飛ばしたな?」
「ふえぇぇっ・・らって・・・パパが・・イジワル・・・パパ・・が・・・」
「パパは独り占めする子には意地悪だぞ。ハルも赤ちゃんと同じようにママのお腹の中にいたんだよ。
ママがハルを好きなように、赤ちゃんを好きになってもいいだろう?」
「・・・うっく・・・ひぃっく・・・・・・」
「ハルはママが好きだろ、赤ちゃんもママが好きなんだよ。
ハルはお兄ちゃんになって、赤ちゃんはきっとお兄ちゃんが大好きになる。ママと同じくらいに」
橋本はしゃくり上げる陽仁の背を擦りながら、やはり'大好きが減る'のではなく'大好きが増える'ことを説いた。
一人っ子から兄弟に、いまは実感が湧かなくともたくさん泣いて、考えて、赤ちゃんに会えるその日を笑顔で迎えられるように。
確実に陽仁がお兄ちゃんになる心の準備は進んでいる。
陽仁はようやく呼吸も落ち着いて、顔を父親の胸に押し付けながら甘える仕草を見せた。
橋本はそんな息子の頭を撫でながら、しかしけじめだけはつけさすつもりだった。
「ハル、それはそれとして、パパに言ったことと本を蹴ったことはどうなんだ?」
「・・・・・・・・・」
陽仁はきゅっと口元を結んで押し黙ったままだった。
「陽仁、強情を張るぶんだけ損するぞ」
最後通達にも反応はなかった。橋本は先ほどよりも若干強く平手を落とした。
ばちんっ! ばちんっ! ばち〜ん!
「・・うわああぁぁんっ!!・・・パパ・・も・・悪いぃ・・・」
子供には子供の意地があるのだろう。陽仁は頑として'ごめんなさい'を言わなかった。
そればかりか掴まれていた手が緩んだ隙に、一目散に母親の元へ逃げ込んだ。
朝の手洗いのときのように、ひと言'ごめんなさい'と言えば済むものを・・・。
母親の膝でひぃひぃ泣く息子の強情さに、橋本は大きく息をついた。
「わかった。それじゃあハルの言うとおり、パパがあっちへ行く。悪いパパは出て行くから、バイバイ。
大好きなママによろしく、赤ちゃんには優しくしてやれよ」
陽仁が振り返ったとき、すでに父親の姿は部屋にはなかった。
再び大泣きに泣き叫ぶ息子と、それを放って出て行ってしまった夫。
妻は息子を膝に抱きながら、小さなため息とともに呟いた。
「困った人たちね・・・」
晴天の日曜日は季節的にも行楽シーズンで、信号待ちで並ぶ車も家族連れの車が多い。
本来なら橋本もその予定だったのだが、いまはショッピングセンターとは反対方向に車線を取ってシーマを走らせていた。
やがてシーマは住宅街の車道に入り、何棟か建ち並ぶマンションの一角に止まった。
「バイバイは良くないよ」
「・・・まさか本当に出て行くなんて思っちゃいないさ」
すっきりとまとめられた広いリビング。きちんと掛けられたソファカバーがこの部屋の住人の几帳面さを現していた。
橋本がシーマを止めて寄った先は、和也のマンションだった。
「それでも結局小夜子(さよこ)さんが面倒を見るんじゃないか。
具合が良くないから彼女は行かないことになったんだろう。それを・・・」
「わかってる。ちょっと頭を冷やそうと思っただけだ、すぐ帰る」
会社を離れると橋本と和也は友人同士に戻る。
同じ大学で、それ以来の気心の知れた間柄だった。
気心が知れているだけに、和也も橋本には遠慮がない。
自分でも自覚しているところを衝かれて、橋本は鬱陶しそうに和也の言葉を遮った。
「それならいいけど・・・。まあでもせっかく来たんだし、コーヒーくらいは淹れるよ」
「コーヒーより何か食わせてくれ。朝、食べてないんだ」
だるい胃袋も昼を過ぎて快復してくると、急に空腹を感じた。
和也は'しょうがないな'と言いながら橋本をダイニングルームの方に呼び寄せた。
橋本はキッチンに立つ和也が見えるテーブル位置に座った。
「明良君は?」
「ああ、君が来るって言ったら、すぐ出て行ったよ」
―橋本さんだけ?ハルは一緒じゃねぇの?・・・んじゃ、オレ遊びに行ってくる―
「・・・お前、もう少し言いようがあるだろう。俺だって傷つくぞ」
「あははっ、何を今さら。僕たちは明良には充分嫌われているよ」
可笑しそうに笑う和也に、橋本もつい苦笑してしまった。
それもそうだ。普段の明良に対する接し方からすれば、間違っても好かれることはない。
いい匂いがしたと思ったら、目の前にジュージューと鉄板皿から湯気の立ったスパゲティとサラダが置かれた。
「おっ、早いな」
「どうぞ。昼はスパゲティだったんだ」
何気なく話す和也だが、要するに昼の残り物なのだ。
「・・・では次期社長の残り物をありがたく頂くとしますか。いただきます」
否定しないところが憎たらしいが、目の前の料理は美味そうだ。
橋本はフォークにスパゲティを一杯巻きつけて口に運んだ。
美味い! 残り物でも文句なく美味かった。
和也は自分用にコーヒーを淹れると、黙って橋本の食事風景を見ていた。
「何だよ・・・美味いよ。これだけ料理が出来たら、麻理ちゃん助かるな」
別に美味いか不味いかの催促をされているわけでもないのだろうが、じっと見られていると何か言わなくてはいけないような気になる。
話は園田のこともあり、自然に和也と麻理子のことになった。
「そう、ありがとう。・・・そうだね、麻理子は結婚しても働くのは辞めないと思うよ。そうなると家事は分担だね」
「園田の結婚も決まったし、お前はいつするんだ。いつまでも麻理ちゃんを待たせているわけにはいかないだろ。
・・・明良君のことなら、それは会社が考えることだ」
「明良のことは関係ないよ。・・・麻理子がなかなか帰って来てくれないんだ」
穏やかな笑顔でそれ以上を言わない和也に少し考えた様子を見せた橋本だったが、すぐに'うん'と頷いて言葉を返した。
「・・・なんだ、待たされているのはお前か」
「食後のコーヒーは飲むかい?」
ペロリと平らげたスパゲティの鉄板皿をシンクに持って行く橋本に、和也は声を掛けた。
「いや、いいよ。今何時だ・・・そろそろ帰るよ」
腹が膨れたら何だかイライラもなくなったような気がして、あれは胃の調子が悪かったせいなのかとさえ思えてくる。
陽仁が言うように、悪いパパだったんだろうなと橋本は頭を掻いた。
「反省も出来たことだし、帰るにはちょうどいいかもしれないね」
「・・・・・・うるさいよ」
まるで見透かされたように言われて、それも当たっているだけになお腹立たしい。
橋本はキッと和也を睨んだが、息子ほどの効果はなかった。
和也は笑いながら、冷蔵庫から包みを取り出して橋本に渡した。
「これはおみやげ、陽仁くんと小夜子さんに」
「・・・悪いな、みやげまで」
睨んだ顔から急に笑顔は作れない。
橋本は憮然としたまま礼を言うはめになってしまった。
和也のマンションから直行で自分の家に帰る。
家の駐車場に車を入れる段階で、玄関からこちらを窺う人物が見えた。
橋本が門の中に入った途端、玄関の扉が大きく開いて陽仁が飛び出して来た。
「パパぁ!!出てっちゃやだぁ!!ぼくね、ぼく・・・本当にパパいなくなっちゃ・・・
ひぃっく・・・か・・と・・・うわああぁぁんっ・・・!!」
橋本は抱き付いて来た陽仁を抱き上げながら、和也の言葉を思い出していた。
―バイバイは良くないよ―
'あいつの方が子育ては上手そうだな・・・'橋本は和也に妙な感心を覚えながら、顔を肩に押し当てて泣き続ける息子の背中をトントンと軽く叩いた。
「ただいま。心配させて悪かったな。ハルの言うとおり悪いパパだ、ごめんな。ごめんなさい」
「ぼくも!ぼくも、ごめんなさい!パパにひどいこと言って・・・。
それから、んと・・本も足でエイッてした・・・。パパァ・・ごめんなさい・・・」
子は親の鏡とはよく言ったものだ。
陽仁に強情を張らせていたのが自分だったことを、改めて橋本は痛感した。
リビングに行くと、妻の小夜子が編み物をしていた。
来年の出産に備えて、いつもながら準備がいい。
白色と黄色の二本取りの編み込みは色柄ふわりと柔らかく、男の子でも女の子でもどちらでも似合いそうだ。
「ママー、パパ帰って来た!おみやげもあるぅー!」
おみやげの包みを持って、やっと泣きべその取れた陽仁が小夜子のところへ駆けて行った。
「お帰りなさい。お食事は?」
編み物の手を止めて、小夜子は夫を迎えた。
「秋月のところで食べて来た。それ、ハルとお前にだそうだ」
「・・・まあ、プリン。手作りだわ、美味しそうだこと。
ハルくん、お顔と手を洗ってらっしゃい。いただきましょう」
「はぁいっ!」
小夜子は顔色も元に戻っていて、つわりの吐き気も収まっているようだった。
「・・・具合は、気分は良くなったのか」
病気ではないにしろ、陽仁を体調の悪い妻に押し付けた後ろめたさがあるだけに、一応気遣う言葉を掛けた。
「ええ、陽仁の笑顔ですっかり」
そう言って微笑む妻に、橋本は心の中で舌打ちをした。
'この嫌味な言い方は秋月とよく似ている'
「ママ、プリンおいしいねぇ。パパぁ、明良兄ちゃんのお兄ちゃんのとこへ行って来たの?ぼくも行きたーい」
「今日は明良兄ちゃんいなかったから、今度いるときに行こうな」
陽仁は和也のことは明良兄ちゃんのお兄ちゃん=A明良のことは明良兄ちゃん≠ニ呼び分けている。
明良が何度か陰で陽仁に和也のことを'おっちゃん'と言わそうとしたが失敗に終っている。
陽仁は橋本が大学生の時に出来た子供なのだ。
物心がつくころでもまだ和也は22〜23歳と、普通で見てもお兄ちゃんだった。
最初のイメージはなかなか抜けない。
その後明良と暮らすようになってから明良兄ちゃんの≠ニ、付くようになった。
本来は陽仁の呼び方が正しいのだが、和也が兄だと知らない明良は間違っていると思い込んでいる。
知らないということはそういうことなのだ。
「秋月さん、お菓子の類いまでお上手なんですね」
「昼飯も美味かったしな。結婚したら家事は分担だって言っていたし。
会社をクビになるようなことがあったら自分が主夫をして、麻理ちゃんに食べさせてもらうとかも言ってたな」
―チェッ、オレん時はみんなねーちゃんにするんだ。男なんていらね―
何かあると明良が口にする言葉だった。
明良にとって男だらけの秘書課は天敵が多いらしい。
そんな話をしているときに冗談のつもりで言ったのだが、冗談に聞こえないほど和也の料理の腕は良い。
「私はあなたにお料理をしてもらおうとは思っていませんけれど、食べさせてあげることも出来ませんから」
「・・・・・・当たり前だ、俺がお前を当てになどするか」
―自分が、妻のその芽を摘んでしまった―
後に続く言葉を飲み込んだ。
恨みがましいことは何ひとつ言われたことはないが、時々今みたいに釘を刺してくる。
普段は控えめな妻だが、どうしてあれでけっこう気は強い。
橋本は'しまった'と、ついよけいな話をしたことを悔やんだ。
「美味しいわね、ハルくん」
「おいしいねぇ〜!」
「・・・ハル、パパにもひと口くれ」
そんなに美味しいのなら、ひと口くらいくれてもよさそうなものなのに。
美味しそうに食べている妻と息子に'俺はお前たちの何だ'と、プリンひとつのことでつまらない愚問が言葉にこそ出ないが顔に出る。
横を見ると妻が笑っている。橋本はフンッと顔を叛けた。
「はい、パパ。ア〜ンして」
「・・んっ・・・甘っ!!」
これは甘すぎる。甘いものが苦手な橋本の口には合わなかった。むしろ不味い。
顔を見ずとも妻の笑い声が聞こえた。
甘いものが苦手なのは、当然妻なら知っている。わかっていたから笑っていたのだ。
午前中の仕返しをされた気がする。
'本当に意地が悪いのはあいつだ'
そう思いつつも、妻の笑い声は橋本の心を穏やかにした。
「ハル、これからショッピングセンターに行くぞ。パパと二人男同士で、どうだ?」
「行くぅ!!パパと・・おとどど・・えと・・えと!!」
「おとこどうし・・・だ」
「おとこどうしで、行くの!!ママはおるすばん!!」
休日はまだ半日ある。
NEXT